生活の音素と「ぐぜる」ことについて

 

──稲垣美侑「草むらの音素」2022年7月13日〜9月18日

 

7月中旬から9月にかけて、経堂アトリエでは稲垣美侑さんの個展「草むらの音素」が開催されている。稲垣さんは夏のこの時期に、毎年経堂アトリエで個展を開催して今年が5回目に当たる。

わたしは今年の5月に江ノ島で行われていた稲垣さんの個展に訪問してからのご縁で、それ以来少しずつではあるが継続的にお話させてもらう機会がある。今回は、7月に行われたトークイベント、経堂アトリエでの個展、それらを通じて見えてくる稲垣さんの制作観や人となりについてわたしの視点から書いてみたい。

 

1. 経堂アトリエと鳥羽市

稲垣さんは、人や場所との継続的な関係性を自分のなかに馴染ませていくことで生まれる要素をもとに作品制作をしている。

経堂アトリエでは、1年に1回個展を開催して今回が5回目にあたる。初回から5回目にかけて、稲垣さんはその場所やそこで暮らす人の温度を想像しながら、人が息づく場所に展示や絵画制作というかたちで関わりたい、という一貫したモチベーションを持っている。毎回、制作を始めるにあたって、場所に通いながら人の温度を想像して、自分には何ができるだろうかと考えながら継続的に展示を続けてきた。

人が5年間も同じ場所と関わり続ければ、見えてくる景色も変わる。稲垣さんによれば、5年間継続的に展示をすることで経堂アトリエの空間の変化を感じられるようになり、人が作る空間の質感をより感じられるようになったそう。はじめは、何か経堂アトリエからイメージして制作していたわけではなく、稲垣さんがもともと関心を持っていた「近い場所」と「遠い場所」の往還によって見えてくる景色の変化、を大切にしながら制作していた。このことについて、すべてに触れることはできないが、簡単に趣旨だけでも書いておきたい。近い場所とは自分の身の回りの環境や、生活の中にある場所のこと。遠い場所とは、文字通り遠い場所ではあるのだが、少し言葉を変えて言えば、常に身を置いているわけではない場所、と言えるかもしれない。この話の中で興味深かったのが、「ホーム」と「ハウス」の違いについて。決まった回答があるわけではないが、たとえば「ホーム」は人にとっての「帰りたくなる場所」や「拠り所となる場所」を指す。それは必ずしも自分が生まれ育った土地や家族だけではないだろう。何の縁もなかった場所や人と関係が深くなって、自分にとってのホームになることはある。他方「ハウス」の方は実際に住んだり人が使ったりする建物としての家のことを指す意味合いが強い。

5回目となる今回は、絵画のモチーフとして経堂アトリエの庭を扱っている。「庭」は、経堂アトリエに偶然庭があったからというだけではなく、稲垣さんがこれまで制作の中心テーマとして扱ってきたものでもあった。「庭」と言っても、大それた庭園の風景ではない。稲垣さんがこだわっているのは、自分と庭との関係性であったり、日々庭を手入れしている人と庭の関係性など、人の足元に広がっていたり、自他が混ざり合う境界的な空間としての庭である。

そのような、網目的な空間における人と環境の混ざり合いに関心を向けることは、稲垣さんによれば「よりよく生きる場所」を考えることにつながる。管理は行き届いているが人の気配が感じられなかったり、整備され過ぎている空間からは、複数の要素が混ざり合った時に生じる生の手触りのようなものは感じにくいかもしれない。

経堂アトリエには、──当然庭だけではなく──日々いろいろな人がやってくる。この4月以降だけでも、経堂アトリエには本当にいろいろな人がやって来た。すべてここで挙げることはできないが、美術や演劇の展示を企画する人、料理教室を開く人、将棋教室を定期的に行っている人、英会話教室を開く人、コンポストに関心を持ちながら都会で循環する暮らしの可能性を考えている人、ミュージシャン、書道家、ステンドグラスの作家さん、建築士、左官屋さん、など。

短い期間ながらもこの場所に身を置きながらさまざまな人を観察してきたわたしにとって、稲垣さんの言葉は、4ヶ月半という期間のうちにアトリエで起こったさまざまなイベント・出来事・日常の風景と重なるものだった。

経堂アトリエの他に稲垣さんが継続的に関わっている場所として、三重県の鳥羽市がある。鳥羽市には漁業を生業としている人が多くいる。その中に、海に潜る仕事を生業としている海女さんという女性たちがいるらしく、稲垣さんは彼女たちの生活に関心を持っている。稲垣さんは2018年頃から鳥羽市に訪れるようになり、フィールドワークや海女さんたちとの交流を重ねたり、三重県立美術館で展示を行ったり、鳥羽市内で個展を開催してきたそう。そして、2020年から2021年に開催された「自然とともに生きる 海女とアーティスト 昔と今。石鏡町と神保町にダイブ!」というプロジェクト兼グループ展に参加したことが大きなきっかけとなって、その後も交流を続けている。

海女さんは、現代において「自然と一緒に生きていく」ということを最も日常的に実践している職業のひとつかもしれない。毎年3月になると、海女さんたちが海に潜って行く「解禁日」があり、その日からわかめ漁などが始まる。稲垣さんは海女さんが取ってきたわかめを見せてもらったり、実際に仕事を手伝ったりしたことがあるそう。

海女さんのリサーチと言っても、資料で調べたりするのではなく、現地に一定期間滞在して、海女さん本人から直接聞いた話や体験を視覚表現に変換して、絵画制作に取り組んでいたことがある。海女さんの生活から稲垣さんが持ち帰った感慨として、「自分とは異なる生活のスケール」ということを挙げていた。

庭や海女さんの生活における時間の流れは、人間のそれとはスケールやリズムが異なる。稲垣さんは、人間的なスケールをこえたモノたちと、何が見えてくるのかわからないがひとまず「一緒にいてみる」ことによって立ち上がってくる波長的なもの大切にしている。

「一緒にいてみる」ということによる交流の形式は、目に見える変化や派手な出来事が起こるわけではない。そこでは一見何も変わらない静かな時間が流れているように感じられるが、たしかに変化は起こっている。そんな質感の時間の流れや距離の縮まり方はたしかにあるのだろう。

今日「人を知る」と言った時、どちらかと言うとそれは拡散していく方向にある。つまり、ひとりの人を深く知るというよりは、知っている人の数を増やす方向性が意図されているように思う。後者の交流は言語的な情報交換に近く、他者をすぐに知ろうとする、あるいは知ったように錯覚する。そこにはどこか忙しなさがある。しかし、経堂アトリエや鳥羽市に継続的に通いながら、庭や海女さんと稲垣さんが交流するかたちは、とにかく一緒にいてみることで何かが立ち上がってくることを待つといった、静謐なものだった。

 

 

2. 生活の音素と「ぐぜり」について

 

今回の展示のタイトルは「草むらの音素」であるが、このタイトルは、過去に稲垣さんが行った「ぐぜり」というタイトルの展示と関係がある。「ぐぜり」とは何か。それは、鳥がうまく鳴けるようになる前の鳴き声ならぬ鳴き声、さえずりに昇華しないさえずりのことである。

稲垣さんは、経堂アトリエで開催されたトークイベントで、「ぐぜり」の説明を次のように始めた。たとえば春になって、外を飛んでいる鳥が鳴いている時に、実はそれがさえずりになる手前の、練習期間であったりする。鶯で言ったら「ホーホケキョ」。鳥ごとに決まったフレーズがあるが、そのフレーズになる手前の、自分のそのさえずりを歌えるようになる前に、鳥たちがお互い真似しながら、「ぐぜり」鳴きをする期間がある。「鳴き方」を習得するこのプロセスは、人間で言えば子どもが言葉を覚えていく過程と重なる。しかし人間と鳥の場合で異なるのは、鳥の場合大人になってからでも1年に1回、「ぐぜり」の期間があるということ。「ぐぜり」とは、声や言語を習得する過程における不完全な状態であると言えるだろう。

「ぐぜり」は英語では「サブソング」、さえずりは「ソング」、になる。つまり、歌になる前の音、個別の「ぐぜり」泣きをしている時の音、「ホーホケキョ」になりきらない「ホ」、「ケ」、「キョ」など個別の分節された音が、音素と言える。この話をふまえて、稲垣さんは鳥だけではなく、たとえば雨が降っている日に家の中にいて聞こえてくる、雨の音や水が地面を叩く音など、日常のなかの音にさらに関心を持つようになった。

今回の展示は、鳥や日常の音だけではなく、植物にしても、植物を構成しているような要素を、色や形で描くことができないだろうかという発想から、「草むらの音素」というタイトルへ至った。展示だけではなく、作品タイトルにも音を想像するようなものが多い。稲垣さんによれば、そこには鳥や日常生活における「ぐぜり」や音素の話が影響しているそう。たとえば歌うように植物が育つとはどのような状態か、目の前の風景が活気を持って存在するようになったら面白そう、などの発想がある。

以上の話が、今回の展示タイトル「草むらの音素」に込められた背景である。わたしはこの話を、稲垣さんが人や場所と継続的に関わり、「一緒にいてみる」ことで見えてくるものを大切にしていることと共鳴するものとして受け取った。鳥羽市の海女さんには海女さんの生活における音素があり、経堂アトリエの庭には、人間のライフサイクルとは異なる生態系を構成するものとしての音素が流れている。他人や生活のなかの音素は、記号化されてわかりやすいかたちで現れるものではない。それは、個別の他者や空間と、時間をかけて付き合い続けることではじめて立ち上がってくる、身体性の伴った現象である。

人間や生活の音素には波がある。鳥にとっての未然の鳴き声のような、ひとつの達成に昇華される以前の、何かがうまくいかない時期が人間にも必ずある。子どもが言語を習得するようなたどたどしいプロセスは、大人になってからでもあるだろう。新しいことを始めるときは常に偶然性や不格好さがともにある。

生活、植物、人間に潜在する音素は、記号化して示せるものではない。それは、人間が感知できないような微細な出来事によって、目に見えないが日々たしかに変化している。いつも通っている場所が、気がついたら違って見えることがある。長い付き合いの人が、ある日昨日までと何かが違うなと感じることもある。

稲垣さんの今回の展示タイトルに込められた「音素」とは、特定の生き物やジャンルに限定された話ではなく、より普遍的に人間や場所に潜む身体的な音素のことなのではないだろうか。それは、言語化して示せるものではなく、長い時間をかけて「一緒にいてみる」かたちで関わることによって、初めて浮かび上がってくるものなのかもしれない。

2022年9月20日 長谷川祐輔

 

長谷川祐輔(キュレーター/(株)Plum Studio 文芸事業部代表)

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